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「戦争反対」「核兵器反対」このことを生きている限り叫びたい!

2020.08.21

 民商は、その中小業者や自営業者の生活と権利を守り70年、そして、『平和でこそ商売繁盛』と平和運動にも力を入れてきました。戦後75年の今年は、世界各地で「平和の波」行動が行われ、民商・大商連も他団体と一緒に「戦争反対」「核兵器廃絶を」と宣伝行動を行いました。街頭でも平和への訴えをおこなった高槻民商の増田孝博(工務店)さんより手記が寄せられました。

 

 私は、高槻市において、家族経営の小さな工務店を営んでいます。会社の指針は『三方よし』売り手よし・買い手よし・世間よしの精神を常に思って日々活動しています。

 さて、原爆が日本に投下されて今年で75年になりますが、私の親父は、長崎県五島列島の椛島(かばしま)という小さな漁村で昭和3年に生まれ、高校は県立長崎工業学校に五島を離れ下宿しながら通っていました。昭和16年に始まったアメリカとの戦争が20年になって日本の敗戦が濃くなる時に、高校の先生から『日本の為に予科練(注:大日本帝国海軍における航空兵養成制度の一つ)に志願しろ』と言われて、敗戦の6カ月前に入隊したそうです。

 

 長崎に原爆が投下された時には17才で、長崎工業高校の2年生でした。配属された所は、大村湾の川棚町でベニヤ張のモーターボートの先端に爆薬を積み込み、敵艦に体当たりするというもので毎日厳しい訓練に明け暮れていました。そして、8月9日に原爆が長崎に投下され、爆心地の1キロメートル圏内にあった長崎工業高校はもちろん、その近くで家屋解体作業に派遣されていた工業高校の先生及び、生徒もそのほとんどが爆死されたそうですが、親父は大村湾で訓練をしていたので被爆をまぬがれました。その親父も69才で亡くなりましたが、生前中は戦争のことも原爆のこともほとんど聞くことはありませんでした。

 

 私は5年前、長崎工業高校など親父の足跡をたどろうと思い、原水禁世界大会の長崎大会に参加し原爆資料館などを見て回りました。そして爆心地の下の川にかかるプレートの碑文を見てその悲惨な実態を知りました。

 

『この下の川が流れる松山町は、昭和20年8月9日、午前11時2分、人類史上2番目の原子爆弾が炸裂した中心地である。当時、この街には約300所帯1860人あまりの一般市民が生活していた。松山町の上空、約500mで爆発した1個の原子爆弾は、その直後巨大な火の玉となり、それより生じた数百万度の熱線と、放射能線と、強大な爆圧は、あらゆるものを一瞬にして破壊し、焼き尽くし、汚染した。町内にいたものは、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き、全員が即死した。壊滅した松山町は、想像に絶する焦熱地獄と化し、惨禍の後は黒こげの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり、正に地獄の終焉を思わせるものであった。また、下の川上流の家屋解体作業に派遣されていた、県立長崎工業高校の先生、及び生徒もほとんど爆死した。』と書かれていました。

 

 戦後19歳で結婚した親父は、私を含む6人の子供を世に送り出しましたが、親父の生き方を振り返ってみると、いつ死んでもいいというような死生感があったように思います。困った人がいれば冬の海にも飛び込み、漁船のスクリューに巻き付いた綱なども外すという親父の姿は、子供心にも男気があったなと今でも思っています。そして38歳で大阪に出て、土建業を興し民商にも入り、生きたいように生きた人生だったようにも思います。

戦争の犠牲者であり、原爆でも生き残り、特攻でも死ねなかった親父の心の痛みが今でも強く伝わってきます。

「戦争反対」、「核兵器反対」このことを私も生きてる限り叫び続けたいと思います。

                                     増田孝博

 

民商では、「安倍9条改憲NO!改憲発議に反対する全国緊急署名」や「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶署名」に取り組んでいます。

平和への祈り、想いを署名に託してください。国会や国連へ届けます。

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